Daydream

全ては泡沫のごとく、ただ溶けて消えていくだけ。。。

医学の発展と患者の尊厳と家族の希望【朽ちていった生命-被曝治療83日間の記録-】NHK「東海村臨界事故」取材班


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※この記事は2023/05/30に加筆・修正を行っています※

私だったら死にたいと思った。

こんな治療はしてほしくない。

これを治療と呼んでいいのかもよくわからない。

おれはモルモットじゃない

大内さんのこの言葉は、あまりにも大内さんの尊厳が損なわれすぎているからこそ出た言葉なのでないか…

 

「被曝」がどんなものか、具体的に思い浮かべられる人は意外と少ないと思う。

私もその一人だった。

為す術もなく、文字通りただ朽ちていく命。

皮膚が再生せず剥がれ落ち、血液や体液が染み出して激痛に悶えても、

造血幹細胞が壊されてリンパ球がなくなり、空気中のあらゆる菌への抵抗がなくなっても、

消化管の粘膜がなくなり栄養が一切吸収できず、一日3リットルの下痢をしようとも、

 

人は人を生かすことができる。

 

命がただ急速に朽ちていく様

私はこの件に関わった医療従事者を責めたいわけじゃない。

全ては20年以上も前に終わったことで、今更「タラレバ」の話をするのは無意味だし、無責任だとも思う。

常識も、倫理観も、医学知識も、価値観も。

20年あれば劇的に発展するし、変化もするし、多様化もする。

それを踏まえた上で読まなければいけない本だと思った。

1999年 東海村JCO臨界事故

きっとこのニュースを覚えてる大人も沢山いるんだろう。

けれど私は知らなかった。覚えてなかった。

中学生になるかならないか、それくらいの頃だったはず。

きっと意味もわからなかったし、興味もなかったんだと思う。

 

1999年9月30日。

茨城県東海村で、その事故はおこった。

核燃料加工施設「JCO東海事業所」では、高速実験炉「常陽」で使う、ウラン燃料の加工作業を行っていた。

大内さんは、その加工作業の工程で中性子線被曝をうけた。

ステンレス製のバケツの中で、溶かしたウラン溶液を濾過していた。

そして濾過したウラン溶液を「沈殿槽」という大型の容器に移し替えていた。

大内さんが右手でロウトを支え、同僚がステンレス製のビーカーでウラン溶液を流し込んだ。

バケツにして7杯分。

最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、大内さんはバシッという音とともに青い光を見た。

その光が臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」で、

その瞬間に、放射線の中でもっともエネルギーの大きい中性子線が、大内さんたちの身体を突き抜けた。

たったそれだけ。

大内さんは作業中、青い光を見ただけだ。

それがどうして、自分の身体が、生命が、朽ち果てていく事態になると想像できただろう。

午前10時35分。

放射線が出たことを知らせるサイレンが事業所内に鳴り響いた。

「逃げろ!」

別室にいた上司が叫び、大内さんは急いで放射線管理区域の外にある更衣室に逃げ込んだ。

その直後、大内さんは突然嘔吐し、意識を失った。

サイレンも、上司の掛け声も、一体何の意味があったのだろう。

人が感知してからでは遅いのだ。

青く光ったその瞬間に中性子線は大内さんの身体を突き抜け、彼の遺伝子情報は、染色体は、バラバラに破壊されてしまった。

生命の設計図を失った彼の身体は、この瞬間以降、朽ちていくしかなくなったのだ。

無知の知

自分たちが日常的に仕事で取り扱っているものがどんなものなのか。

知らないことは恐ろしい。

けれど、自分が無知であることさえ知らないのはもっと恐ろしい。

無知の無自覚。

ソクラテスの言葉に「無知は罪である」というものがあるけれど、極論のようでいて本質のような気がしている。

己が無知であることは、時に取り返しのつかない自体を招くことになるのだから。

 

たった20年とはいえ情報化社会が加速した現代では、こういう事態は随分減ったのではないかと思う。

けれど、仕事でウランなどの核燃料を扱っている人たちが、

その危険性を正しく認識しないまま従事している。

「この事故は起こるべくして起こった」だなんて、

そんな残酷なことを言えるのは、

私が20年も未来の「神の視点」でこの事故を視ているからに他ならない。

 

ウラン化合物を溶かしてウラン溶液にする過程で、当初は溶解塔という臨界にならないよう形状を工夫した容器を使っていた。

ところがある時から、溶解塔の代わりにステンレス製のバケツが使用されるようになった。

理由は一回の作業ごとに容器を洗浄する必要があり、バケツは洗浄が簡単で作業時間も短縮できるからだ。

この他にも現場から始まった違法行為はいくつかあり、それらは1995年の7月に会社の承認を受け、「裏マニュアル」となった。

しかしこの裏マニュアルも、臨界を回避する対策はとられていた。

事故当時の作業は、この裏マニュアルでさえも無視されていたのだ。

作業をしやすいように、簡単にできるように、時間を短縮できるように。

それがどれほど危険で、どんな事態を巻き起こすことになるのか。

知ってさえいれば誰もそんなことはしない。

知らないからこそ出来たのだ。

そうして日本で初めての臨界事故はおこった。

これでやっと誰も、「知らない」と無知を振りかざすことは出来なくなったのだ。

自分が仕事で何を扱っているのか、「知らない」では到底済まされない。

 

知っていても事故がおこる可能性はある。

けれど知らなければ、その確率はぐっと上がる。

だからこそ確率を限りなくゼロに近づけるため、日夜努力している人たちがいるのも忘れてはならないのだと思った。

大内さん、被曝三日目

東大病院へ転院の日。

致死量を遥かに超えた放射線被曝患者が搬送されてくると聞かされたスタッフは、一体どんな状態の患者を想像しただろう。

意識もなく、身体もボロボロの患者を想像したに違いない。

大内さんの被曝量は20シーベルト前後とされた。

これは一般の人が一年間に浴びる限度とされる量のおよそ2万倍に相当する。

ところが搬送されてきた大内さんは意識がハッキリしており、会話も普通にできる。

一見すると「どこが悪いのだろう?」と思うくらい、見た目には普通の状態だった。

唯一、大内さんの身体の中でもっとも放射線を浴びたとされる、

事故当時ロウトを支えていた右手が、赤く腫れていた。

まるで一日で一気に日焼けでもしたかのように。

それだけと言ってしまえば、それだけだ。

だから思ってしまう。

「大内さんは治療すれば退院できるようになるのではないか?」と。

治るのでは?助かるのでは?

そんな希望が見え隠れする。

きっと私だって、その場にいればそう思う。

本書を読み切って結末を知っている20年後の今でさえ、そう思いたくなる。

それが希望というものだ。

中性子線被曝の恐ろしさはこれだと思った。

例え致死量を遥かに超えた放射線に被曝したとしても、すぐには死なない。

しかし致死量を超えているのだから、被曝した時点で確実に死ぬことが決まっているのだ。

それが「致死量」という基準だ。

被曝した大内さんの体内でおこったこと

被曝6日目。

無菌治療部の平井医師は自分の目を疑った。

大内さんの骨髄細胞の顕微鏡写真。

そこには顕微鏡で拡大した、大内さんの骨髄細胞の染色体が写っているはずだった。

しかしそこに写っていたのは、バラバラに破壊され、散らばった黒い物質だった。

断ち切られ、別の染色体とくっついているものもあり、平井医師が知っている人間の染色体とは明らかに様相の違うものだった。

染色体とはすべての遺伝子情報が集められた、生命の設計図のようなもの。

23組あり、順番通りにならべることができる。

しかし大内さんの染色体は、どれが何番目なのかも全くわからず、並べることもできない。

生命の設計図である染色体がバラバラに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。

大内さんの身体は…

皮膚も、血液も、臓器も、その全てが…

もうなにひとつ再生することはない。

今あるものが、ただ朽ちていくだけ。崩れていくだけだ。

前例がないから、誰にもわからない

理屈はあれど、目にしたことはない。

安楽死も認められていない。

希望を捨てることも出来ない。

医療チームは、目の前に患者がいれば何もしないわけにはいかない。

何が正しいのかなんて、その時その現場では誰にもわからないし、誰も教えてくれない。

自分たちが当事者であることだけは確かな事実で、

治療しても、しなくても、

延命しても、しなくても、

大内さんを生かしても、殺しても、

きっと誰かには責められ、きっと何かしらの後悔は残る。

医療チームの人たちも、精神が極限の状態だったのではないかと思う。

それはきっとご家族も同じで。

致死量と言われても、目の前の大内さんは今生きていて。

前例がないと言われれば、医学を信じたくなるのではないだろうか。

「もしかして助かるのでは」という希望を捨てるのはきっと難しい。

千羽鶴ってすごい制度だなと痛感した。

それは、私があの日、必死に神に祈ったのととてもよく似ている。

もう他に、出来ることが何もないのだ。

それでも何もせずには居られなくて、だから神社に通って祈り続けた。

あの時のことは、今でも思い出すと涙が出てくる。

自分はこんなにも無力なのかと絶望した。

哀しみと、悔しさと、苛立ちと。

フラストレーションは募る一方なのに、ただ祈るしかない自分が情けなかった。

大内さんのご家族が折った鶴は、一万を越えたらしい。

大内さんはずっと無菌室にいて、鶴を見せることすら出来ないのに。

それでもご家族は鶴を折り続けた。

同じではないかも知れないけど、それでも私は、あの日の自分と重ねてしまう。

出来ることは何も無いのに、願いが届いて欲しくて祈り続ける。

意味は無いかも知れないけれど、それでも何もせずにはいられないのだ。

私だったら知りたいし、その上で死にたいと意思表示したいと思う

告知は重要な義務だと思う。

患者には、自分の病状を知る権利がある。

隠されることなんて、現代ではあまりないと思うけど。

知った上で自分の人生を選択するのも、尊厳の一つだ。

大内さんは知らなかった。

自分に何が起こったのか。

皮膚も爪も剥がれ落ち、

血液も役目を果たさず、

内臓が機能しなくなる頃には自発呼吸も怪しくなり、

人工呼吸器に繋がれて喋ることも出来ず、

ひたすら鎮静剤を打ち込まれて痛みにただ耐える日々。

そうなってからでは、もはや選択することさえ出来ない。

そんなのはあまりにも辛すぎる。

どんなに困難でも、不屈の精神で治療に専念したい人もいる。

一方で、限られた時間のQOLを優先したい人もいる。

どちらが正しいかという話ではなく、

自分の意志で、どちらでも自由に選択したい。

そして選択するためには、判断材料が必要で。

本書の読書体験を通して、

自分の人生の選択における判断材料がまた増えたような気がする。

そして人の身体とは、絶妙なバランスの上で生命活動を維持しているんだな、と。

当たり前のように日々を過ごし身体を使っていると、

この身体が健康であることに、

この身体が明日も同じ状態であろうことに、

なんの疑問も持つことはない。

 

医学の発展も、決して無視することは出来ない。

しかしそれによって個人の尊厳が押し流されてしまう場合もある。

こういう本、義務教育に取り入れたら良いのにと思う。

絶対みんな読んだほうがいい。

NHKのドキュメンタリーを文字起こししたものなので、難しいことは書いてない。

写真も多く挿し込まれている。

東海村JCO臨界事故から20年後

Yahoo!ニュースで気になる記事を見つけた。

1999年の事故当時から20年が経過した2019年の取材記事。

当時東大病院で大内さんの治療を担当した前川医師へのインタビューも載っている。

あれから20年経っても、あの治療を忘れたことがない。

news.yahoo.co.jp

「一日一日、驚きの変化でした。血液の液体成分が血管の外に出て失われ、体がむくむ。肺に水がたまり、酸素の取り込みが悪くなって、4日目ごろ、昼夜逆転の不穏状態に。採血され、胃の検査をされ、『モルモットみたいね』という発言が大内さんから出てきました。でも、話をしたのは最初の3~4日くらい。その後は人工呼吸管理が必要となり、持続的に鎮静薬を投与し、意識をなくしました」

「急性被ばくの患者なんて誰も見たことがない。皮膚の様子は刻々と変化し、いろんな症状が出てくる。(皮膚が再生されず)身体の表面から大量の体液と血液が失われ、それに大量の下痢。終わりのほうでは、毎日1万cc以上という量の輸液です」

「篠原さんの被ばく線量は大内さんより低かったのですが、211日と長期に生存されたので、皮膚や皮下組織がゆっくりと変化し、胸・腹・手足の皮膚は鎧(よろい)のように硬くなりました。新しい細胞をつくる皮膚の幹細胞もやられ、最後は本当に筆舌に尽くしがたい様子でした」

20年という歳月。

この事故に関わった人たちも、少しずつ減っていく。

褪せないでほしいと願わずにはいられない。

大内さんらの治療について、前川医師は「海図のない船出」だったと形容する。誰もが見たことがない身体の変化。それと連日向き合った。

海図に記されていたのは「治療不可能」という絶望的な文言で、

だからこそ事故を起こさないための努力が常に必要なんだろうと当たり前のことを思ったのでした。

余談:ノンフィクション本の偉大さ

私自身、ノンフィクションの本の凄さや面白さを知ったのはつい最近なのだけど、

小説を読むのとは違った魅力があるな、と。

全ては現実に起こった(起きている)ことだと思うと、興味の惹かれ方や痛みの感じ方に随分と違いがあることに気づいた。

 

daydreaming.hateblo.jp

 

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そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。

お疲れ様でした!