Daydream

全ては泡沫のごとく、ただ溶けて消えていくだけ。。。

宗教と神様と私。


スポンサーリンク

“何か宗教を信仰していますか?”と聞かれたら、“していません”と迷わず答えます。

日本人は、私と同じ回答をする人が多いのではないでしょうか。

 

“神様を信じますか?”と聞かれたら、“信じません”と答えます。

しかしその答えに、矛盾があることにも気付いているのですよ。

 

ふとした瞬間、無意識に、『神様!』と、祈ることはありませんか?

私はあるんです。

例えば、お腹痛くてトイレにこもっている時とか…w

“信じてない”と言いながら、“神に祈る”。

全く不思議な現象だと自分でも思います。

宗教について、何も知らないから知りたくなった

 

宗教に対して、良くも悪くも鈍感なのですね、日本人は。

それでいてクリスマスとか、お正月とか、イベントだけは目茶苦茶に取り入れて楽しんでいます。

鈍感であると同時に、とても柔軟なんだなぁ…と。

そんなわけで、宗教について少し積極的に学んでみようと思い、この本を手に取りました。

 

本書はイスラム教・キリスト教ユダヤ教・仏教・ヒンドゥー教神道に関わる、これまでの歴史と現在の出来事(執筆時点まで)について解説されています。

鈍感な私にもわかりやすい解説になっているのは、さすがの池上先生です。

宗教は科学を凌駕する

聖書の中身をご存知でしょうか。

“世界は神がお創りになった”のです。

旧約聖書の創世記ですね。

神様は天と地をつくり、光と闇をつくり、昼と夜が生まれます。

大地と海をつくり、植物が生え、太陽と月と星をつくります。

鳥と魚をつくり、獣と家畜を作り、最後に、神に似せて人をつくります。

ここまでが6日間の出来事。

そして7日目に、神様はお休みなるのです。

 

個人的には素敵なお話だと思います。ファンタジーです。私にとっては。

けれども、キリスト教原理主義の方たちにとっては違います。

聖書に記されたこの創世記は、まさに世界の始まりの真実なのです。

原理主義とは、『宗教の教えの根本に戻ろう』という考え方のこと。

『聖書』に書かれたことは一つひとつがすべて真実であると考え、その教え通りに生活しようというものなので、彼らにとってダーウィンの進化論は、とても認められるものではないのです。

アメリカ(テネシー州)に、『進化論禁止法』があったことには大変驚きました。1967年には廃止されたそうですが、そこまで大昔ではないですよね?

先進国と宗教の関係は、非常に興味深いです。

日本人の大半は【神道】を信仰している!?

池上先生曰く、日本人の大半が信仰している宗教が実はあるとのこと。それが“神道”(しんとう)です。

神道は『一神教』(神様はたった一人、唯一無二の存在)ではなく、『多神教』(神様は複数存在する)です。

八百万の神様】ってやつですね。

日本で生まれ育った私も例外ではありません。

アッラーとかキリストとか言われても、神様としていまいちピンときませんが(どちらかとうと神様というよりも物語の主人公みたいなイメージ)、八百万の神様はイメージが湧きますし、なんだか馴染みやすい気がします。

美しい自然豊かな土地へ行けば神聖さを感じますし、畏怖の念を覚えます。

『木の神様や水の神様、ここにはあらゆる神様がいるよ』と言われれば、とても否定的な気分にはなれません。

『そうかも知れないね』と、素直に思うでしょう。

 

信じないと言いつつ拒否しているわけではなく、どちらも受け入れている…と言えば聞こえはいいですが、日本人にありがちな節操の無さとも受け取られそうな気がします。

そして宗教について語る時、どうしても自分が“日本人”であることを強く意識してしまいます。主語が大きくなり過ぎている自覚はあるんですけどね。

人は、最後は神に祈るのです

私は基本的に、初詣には行っていません(付き合いで行く年も稀にありますが)。

お賽銭を投げ入れることも、おみくじを引くことも、同様に興味がありません。

また、観光で神社などに立ち寄ると、友人が参拝している間、私は隅で待機して終わるのを待ちます。

しかし私は、神様を拒絶しているわけではありません。

私も以前、熱心に参拝していたことがあるのです。

 

長く共に暮らしていた、小さな家族が病気になった時でした。

彼女は大きな病気を繰り返し、加齢とともに少しずつ弱っていきました。私は仕事の時間をなんとか融通し、通院を繰り返し、惜しまずに高額な治療費を払い続けました。

けれど私にできることはそれだけで、病気は急に消えてなくなったりはしないのです。人間も含めて全ての生き物には寿命があり、現状それに逆らうことはできません。

だから私は、神様に祈りました。お賽銭も入れたし、お守りも買いました。熱心に手を合わせ、ひたすら頭を下げました。

その時に神様とは、人が最後に行き着くところなのだと思いました。あらゆる可能性を潰し、全ての手を尽くし、出来ることが何も無くなったら、祈りながら天命を待つ。

あの時の私は自分に出来るあらゆる手を尽くし、もう他にどうしようもなかった。だから神に祈ったのです。

言い換えれば、『神様は信じないな〜』なんて脳天気に言っている現在、私は幸せだということです。八方塞がりなどではなく、祈る前に自分で出来ることがある。判断し、行動する余地があるということです。

それはまだ“可能性”があるということで、とても幸せなことだと思いました。

『お腹痛い時にトイレで祈ってしまう』のも、同じ原理かと思いますw

 そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。

お疲れさまでした!

※この記事は旧ブログにて2018.2.6に掲載した記事を、本書の再読にあたり加筆・修正したものです※