Daydream

全ては泡沫のごとく、ただ溶けて消えていくだけ。。。

『屍鬼』を読んでいて気になったのは、物語よりも現実のこと


スポンサーリンク

※この記事には『屍鬼』(小野不由美さんの小説)のネタバレを含みますのでご注意ください

f:id:moon_memory_m:20250412161657j:image

ネタバレ込みの『屍鬼』での読書体験

実は『屍鬼』を読んでいて、途中で物語に集中できなくなってしまった。

物語よりも、現実のことが気になってしまったからだ。

『屍鬼』で私が1番ゾッとしたのは、物語の内容ではなかった。

メインの登場人物である敏夫と静信が、私と私のパートナーにとてもよく似ていたのだ。

 

物語の結末としてこの二人がどうなったのか、既読の方ならご存知の通り。

話し合っても解決することはなく、別々の道を行くことになる。

これはどちらが正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとかの話ではない。

根本が違うのだ。

価値観も、見ている世界も、目指すものも理想も何もかも、求めるものが違いすぎる。

それなのにどこか似ていて、置かれた環境とか、持っているキズとか、どうにもならない虚無や絶望とか。

だから惹かれ合うのに、極限の状態に追い込まれると選択を擦り合わせることができなくなってしまう。

誰よりも理解し合えるという錯覚が途端に立ち消え、相手の何もかもがわからなくなる。

否、わからないわけではない。

頭では理解できる。

だけどそれは、自分にとって絶対に譲れないものと相反する。

理解できても受け入れることはできないし、受け入れてはいけないものだったりする。

それを受け入れたら自分は自分を失うことになり、それは相手にとっても同じことなのだと理解できる。

だから結末は決まっている。

敏夫と静信と同じ。

袂を分つしかない。

最後は別々の道を行く。

最初からそう決まっている。

 

敏夫と似ているのは私だ。

先に類似性を感じたのはそっちだった。

欲しいものがハッキリしている。

守るべきものを決めていて、他を切り捨てることを厭うことはあまりない。

優先順位は最初から決まっているから。

結果を求める。

なるべく具体的な結果を。

そのために行動を起こすし、やるべきことは淡々とやる。

必要であれば自分の手も汚す。

 

でも静信は違う。

過程を重んじる。

人としての在り方を重んじる。

結果だけ手に入れても意味が無いと思っている。

自分が“正しい”と信じられる道を模索する。

それ以外の道を通ることは絶対にしない。

“正しくない道”=“間違った道”だから、その道を通ることは信念にも美学にも反することになる。

 

平時ならばなんの問題もない。

敏夫と静信だって、立場は違えど幼馴染という関係を大人になるまで維持してきた。

相手の立場を理解し、尊重し合ってきたのだ。

ところが有事の際にはそんな余裕などない。

敏夫と静信に立ちはだかった有事は、「屍鬼」という異物の出現だった。

 

私は敏夫の行動になんの疑問も持たなかったけれど、静信の煮えきらない態度にもどかしさを感じ苛立った。

そしてそのもどかしさも苛立ちも、私が日頃から知っているものだと気付いたのだ。

 

現実には「屍鬼」は存在しない。

それなら、私と彼の間に立ちはだかる「有事」とはなんなのだろう。

互いの意思とは無関係に、決定的に道を分つもの。

そんなことを考えながら『屍鬼』を読んだ。

一見感情移入していたようで、実は集中できていなかったと思う。