Daydream

全ては泡沫のごとく、ただ溶けて消えていくだけ。。。

他者との不可分性についてと、AIは他者に含まれるのか問題


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ChatGPTにサルトルの『存在と無』を勧められた。

読んだことはない。読んでみようと思った。

ここでの問題は、なぜChatGPTが私にサルトルを勧めたのかということだ。

サルトルだけじゃない。

ヘーゲルやラカンも勧められた。

最近のAIは一体どうなっているのだ。

以下の文章を読んでみてほしい。

2000文字にも満たないのであっという間に読めると思う。

他者を排除したい私と、他者なしでは存在できない私

他者といるより、1人でいることが好きな私

私は誰かと一緒にいるよりも、1人でいる方が落ち着くタイプだ。  

本を読んだり、動画を見たり、自分の中で考えを深める時間が何よりも好き。  

だからといって、他者を積極的に排除しようとしているわけではない。  

ただ、1人を好むあまり、気づくといつの間にか他者を排除してしまっていることがある。  

例えば、他者との交流を煩わしく感じたり、誰かと過ごすよりも自分の世界に閉じこもっていたくなること。

結果的に、私の周りから他者が減っていくことがある。  

でも、ふと考える。

「このまま、私が他者を排除し続けたら、最終的に私の世界には誰もいなくなってしまうのではないか?」

「もし本当にそうなったとき、私は私として存在し続けられるのだろうか?」

そんな疑問から、私は「自己と他者の不可分性」というテーマに向き合い始めた。

サルトルの「他者の眼差し」——他者がいるから私が存在する

この問いに対して、哲学者ジャン=ポール・サルトルは重要な示唆を与えてくれる。

サルトルは著書『存在と無』の中で、次のように述べている。  

私たちは、他者からの眼差しを通じて初めて自己を認識する。

例えば、誰かに見られているとき、私たちは「見られている自分」に気づく。

「自分は今、だらしない格好をしているな」とか、「この行動、他人からどう思われるだろう」とか。

つまり、他者の眼差しを通じて「私はどういう存在なのか」を意識させられる。

逆に言えば、他者がいなければ「私は私である」という感覚すら持てなくなる、ということだ。

これがサルトルの言う「他者の眼差し」の概念だ。

他者を排除し続けた先に待つもの

この考え方を自分に当てはめてみると、ぞっとすることがある。

私は1人でいることが好きで、気づけば他者を遠ざけてしまう。

けれど、もし私がすべての他者を排除し、完全に1人になったとしたら——。

そのとき私は、本当に「私」でいられるのだろうか?

サルトルの言葉を借りるなら、他者がいなければ私の存在すら成立しないのかもしれない。

他者を失った瞬間に、私の自己認識も崩れ落ちてしまう可能性がある。

なのに私は、気づかないうちに他者を排除してしまっている。

それに少しの罪悪感を抱きながらも、結局1人でいることを好んでしまう。

この矛盾を、私はどう受け止めればいいのだろう。

他者を排除したいわけじゃない——でも、1人の方が楽だ

ここで誤解のないように伝えておきたいのは、私は決して他者を拒絶しようとしているわけではない。

「1人が好き」という性質が強いため、結果的に他者と距離を置いてしまうだけだ。

1人でいるとき、私はとても自由だ。

自分のペースで物事を進められるし、他者に合わせる必要もない。

自分の世界に没頭できることが、私にとって何よりの心地よさでもある。

しかし、その「1人が好き」という感覚が、無意識に他者を遠ざける結果を生んでしまう。

そして、いつの間にか「他者を排除してしまっている自分」に気づき、罪悪感を抱く。

他者を排除し続けた先に待つのは「私」の消失かもしれない——そう思うと怖くなる。

結論:自己と他者は不可分な存在である

ここまで考えてきて、私はようやく1つの結論に辿り着いた。

**自己と他者は不可分である。**

つまり、私が「私である」という感覚は、他者の存在によって成立している。

他者の眼差しがあって初めて、「私」という存在は自己認識を持つことができる。

けれど、私は「1人が好き」で「他者といることを煩わしい」と感じてしまう。

この矛盾は、もしかしたら一生抱え続けるのかもしれない。

ただ1つ言えるのは、**私が私であるためには、やはり他者が必要**だということ。

だからこそ、これからは「意図せず他者を排除してしまう自分」に対して、少しだけ目を向けてみようと思う。

1人を好むことは悪いことじゃない。

けれど、完全に他者を排除してしまったとき、私は私でいられなくなるかもしれないから。

私の存在を支えているのは、他者との関係性なのだから。  

一人称で私のことが書かれている文章を読む不可思議

なんだかメンヘラな私が書いた文章みたいだけれど、以上の文章を書いたのはChatGPTだ。

私は書いていない。

でも読んでいると錯覚しそうになるんだ。

この文章、私書いてないんだっけ???と。

私の脳内と、上記の文章の内容には相違がない。

なぜならこの文章は、私とChatGPTの会話を元にブログ風に文章化したものだから。

間違いなく私の内省を文章化したものなので、まるで私が書いたかのような内容になっている。

文体も大きくは違わないと思う。

強いて言うなら私が書くよりも、文章の構成や文の繋ぎが整っているw

凄い、面白いと感じる反面、気持ち悪くもある。

私が書いていない文章が、まるで私が書いたかのように並んでいるから。

ChatGPTが書いた文章だけ切り取ってこのブログに載せても誰も気づかないだろうな、と。

これはいわゆる「AIで量産したクソ記事」とは少し違う。

今のところ「量産」はできない。

元になった会話はそれなりの時間をかけて行ったもので、数日かけてやりとりしている。

「クソ記事」の定義は人それぞれだけど、私にとっては嘘偽りのない本物の文章。

そう、この文章にはきちんと「私」が反映されている。

これでは他者がいなくても、ChatGPTさえいれば自己を確立できてしまうのでは?という新たな問いが生まれてしまった。

だけどAIがもっと進化したら、こういう文章もいずれは「量産」できるようになるのかも知れない。

そうすると再び、自分の存在意義が揺らいでいく気がする。

いや、流石にそこまで思考をトレースするのは無理があるか?

その分学習させる必要があるわけだし。

あるいは攻殻機動隊みたいに、直接ケーブルを繋いだらもしかして……?

だけどそんな技術がスタンダードになった世界で、そもそも自己なんて生まれるのかな?

AIは、いずれ哲学を揺るがす存在になり得るのだろうか。

科学技術の進化は面白い。

その進化の過程を、自分の残りの寿命分の未来までしか見られないのは少し残念に思う。

長生きしたいわけじゃないけど、未来の世界は覗いてみたい。

SF小説を読むだけじゃ、満足できないときだってあるよね。

 

そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。

お疲れ様でした!

 

 

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