この物語を読んで物凄く不快な気持ちになったのは、私も体験したことがあるからだ。
主人公・岩切のように、どうしようもなく理不尽な仕事を。
- 『渇水』河林満
- 顧客を選ぶ権利のない仕事
- 水と空気と太陽はタダにするべきなのか
- 命の水は、料金を滞納しても最後まで止まらない
- 市役所の職員も、医療従事者も、ただの労働者
- [おまけ]本の評価と物語の評価
『渇水』河林満
水道料金を滞納して支払わない住民がいる。
督促して、訪問勧告して、それでも長らく支払われなければ、水はいずれ停められる。
停水執行。
それが、市役所の水道部に勤める岩切の仕事。
顧客を選ぶ権利のない仕事
一般企業の大半ではあり得ない、顧客を選ぶことのできない仕事。
市役所に勤める岩切の仕事は、まさにこれと言える。
住民全てが顧客で、相手がどんな人間性であろうと爪弾くことはできない。
私の仕事も同じだ。
保険診療を取り扱う医療機関では、患者を選別することなどできない。
これは一般企業ならほぼありえない事態なわけで。
通常は取り扱う商品や価格帯・ブランディングなどによって、顧客のターゲット層をある程度絞ることができる。
あるいはカスハラなる言葉が流行っている昨今、直接顧客にノーを突き付けることも可能になってきたのが世の流れだ。
なんとも羨ましい限りである。
医療機関にその権利はない。おそらく市役所も。
どんなにクソみたいな相手でも対応せねばならないのだ。
世の中大半はまともな人であるが、ごく少数のクズみたいな人間は、端的に言えばクズ度がえげつない。
これは対応した人間にしかわからない。
なぜならこんな仕事でもしていなければ、通常はそもそも関わるはずのない人種だからだ。
世間からは完全に臭いものとして蓋をされている。
私は自分の仕事が嫌いではないけれど、だからといって好きとは言い切れない原因がここにある。
患者からどんな理不尽を押し付けられても、私はただ頭を下げることしかできない。
そこには私個人の価値観も、感情も介在しない。
仕事と割り切り心を無にして頭を下げる。
それはある意味でとても簡単なことだけど、ある意味ではとても難しいことなのだ。
なぜなら私にも感情というものがある。
考えないようにしても考えてしまったり、感じないように頑張っても理不尽を押し付けられれば納得できずに不満を感じる。
何もかもを割り切ることは簡単ではない。
息を深く吸って、目を閉じる。
目の前の理不尽をどうにかやり過ごす。
こんな人間も、みんなが納めた税金や医療費を使っている。
怒鳴り散らす、暴力をチラつかせる、ストレスの発散で八つ当たり、他人の尊厳を踏み躙る。
どうしてこんな人間が生きているのか。
なぜこんな奴が吐いた息を吸わねばならないのか。
まるで悍ましいものを見るかのように、同じ人間とは思えなくなることもある。
そんな相手にも頭を下げる。
必要ならば謝罪し、必要ならば優しく宥める。
相手が満足すれば、或いは諦めてくれれば嵐は去って、業務は進むけれど私の中では一層の吐き気が込み上げてくる。
そしてそれは、時に殺意に似ている。
水と空気と太陽はタダにするべきなのか
物語にはそんな言葉が出てくる。
でも私は、そうは思わない。
それができる人は、ナイフ一本で山中に放り出されても生きていける人だ。
少なくとも私には無理だし、そんな生活はしたくもない。
水は浄水されていてほしい。
蛇口を捻るだけで、飲めるほど綺麗な水が出てくるのは素晴らしくありがたい。
排水がきちんと管理されていることは公衆衛生に大きく貢献していると思う。
そのどれもが、とてもじゃないがタダで維持できるものではない。
汚水をそのまま飲める人はそれでもいい。
が、少なくとも私には無理だ。
インフラの維持にはお金がかかる。
つい最近も、某所で大規模な道路陥没が起こったばかりだ。
命の水は、料金を滞納しても最後まで止まらない
私は光熱費を滞納したことがないし、大半の人はそうだろうと思う。
1回くらいうっかり払い漏れが生じたとしても、気付いた時点で慌てて支払おうとするはずだ。
でも世の中には、そうでない人もいる。
そんな人は僅かだと、思いたいけれど……
『渇水』がどの程度事実に基づいて描かれているのかは不明だが、岩切の業務を読んでいると「滞納者、意外と多いな……」というのが私の感想だった。
電気とガスは料金を滞納すると比較的早い段階で供給をストップされると聞いたことがある。
しかし水道に関しては違うらしい、というのは私も以前から聞き及んでいた。
『渇水』を読むと「なるほど、実際はこういう感じなのかな?」と思う。
そしてそこを逆手に取って、滞納し続ける住民もいるのだろう。
市役所の職員も、医療従事者も、ただの労働者
聖人君子ではないし、ボランティアでもない。
人件費は絶対に必要だし、サンドバッグにされる謂れもない。
ただでさえ労働人口不足の世の中なのに、こんなんじゃ従事する人間はいずれ居なくなる。
こんな仕事は誰にも勧められない。
エッセンシャルワーカーとはそういう仕事だ。
社会構造が矛盾しているとしか思えない。
「東京中の水を止めてみたい」
そう呟いた岩切の気持ちが、少しわかる。
物語の結末は、あまりに後味が悪い。
だからこそ考えてしまう。
「じゃあどうすればよかったのか?」と。
「岩切は悪くない」
そう思いたい。
なぜなら彼に自分の一部を投影している私にとって、それはイコール「私は悪くない」という意味になるからだ。
「私は悪くない」
そう思っている、そう思いたい私が確かにいる。
そんな自分に気付いてしまった。
自覚してしまったという方が正しいだろうか。
あぁ、だから私はハッピーエンドの物語をあまり読まないのかも知れない。
「面白かった。良かった。楽しかった」で、まるで何事も無かったかのように終わってしまうから。
それが悪いわけではないけれど、それを良しとはしていない自分がいるのかも。
[おまけ]本の評価と物語の評価
『渇水』を読んで直面した問題はもう一つある。
本書には短編が3つ収録されている。
表題作が『渇水』なのだ。
私はブクログで読んだ本の記録を録っていて、読み終われば星の数で評価をつける。
これは結構バカにならなくて、後々の自分にかなり役立つ。
そこで『渇水』の評価をどう付けるべきか悩んでしまう。
収録されている三作品の中で、『渇水』だけが突出して刺さり過ぎた。
本の評価として三作品の平均をつけるべきか、表題作単体の評価をつけるべきか……
乖離という名の矛盾。
これだから短編集は……苦手なんだぜ(ただの怠惰)
それにしても本当に良いタイトルだよね、この小説。
そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。
お疲れ様でした!
今回の不快感、以前も似たような感覚あったなぁと思ったけど
寺地はるなさんの『川のほとりに立つ者は』を読んだときと似てる気がする。