一ヶ所に留まるな
自分の弾が最後だと思うな
賢いのは自分だけだと思うな
それが、狙撃兵の鉄則。
同志少女よ、敵を撃て
2022年(第19回)本屋大賞で大賞を受賞し、
第11回アガサ・クリスティー賞では史上初の選考委員が全員満点をつけ大賞を受賞した。
本作のヒロインはロシアの狙撃手として独ソ戦(1941年開戦)に参加しており、
現在現実のロシアも突如戦争を始め、
作品内容と現実のリンクが起こり、
より一層の話題を呼んだ。
【同志少女よ、敵を撃て】用語解説的な
内容に触れる前に、作中に出てくる単語をメモしておく。
幅広い意味を持つ単語や、時代によって意味の変わる単語もあるけれど、
本書内でどのような意味を指すかを記しておく。
独ソ戦…別名、東部戦線。第二次世界大戦中に起こったドイツvsソ連の戦争。1941年、ドイツ側が独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に軍事侵攻を開始した。
焦土作戦…撤退時に自国の領土を焼き払い、侵攻してきた敵側に食料・燃料・インフラなどあらゆる資源を与えないようにする戦術。ロシアのように自然環境が過酷な国では特に有効。
フリッツ…ドイツ兵
イワン…ソ連兵
カッコー…ドイツの狙撃兵
ナチス…ドイツの政党。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)。アドルフ・ヒトラーは首相就任後、一党独裁国家とし、ドイツはナチズムを強制される全体主義国家となった。
パルチザン…ナチス・ドイツの占領地での抵抗運動・それに参加する人たち
悲惨な対立の物語
イワノフスカヤ村に突如侵攻してきたドイツ軍。
村人は惨殺され、少女セラフィマの目の前で母親も殺されてしまう。
セラフィマ自身も射殺される寸前、
赤軍の女性兵士・イリーナに助けられる。
そしてイリーナは、絶望するセラフィマを復讐へと奮い立たせた。
少女は過酷な訓練を受け、狙撃手となる。
自ら戦場に立ち、目の前で仲間を殺され、敵兵を殺していく。
敵とはなにか。
敵とはだれか。
ドイツ人だから殺すのか。
ソ連人は本当に味方なのか。
狙撃手として、女性として、
戦場にあるセラフィマの苦悩と葛藤が描かれている。
【同志少女よ、敵を撃て】を読んで思ったこと
1人の死は悲劇だが、
100万人の死は統計上の数字にすぎない
このようなことを言ったのは、
確かこの時代のドイツの軍人ではなかったか。
戦争は悲劇。
戦争は悲惨。
戦争は悲しく、辛く、
戦争は良くないもの。
そんなことは、大半の人が頭では理解している。
知識として知っている。
けれど、それを実感できる人間がどれほどいるのか。
私は戦争を知らない。
体験したことがないから、実感できない。
私の祖父母たちは戦争を経験した世代だった。
だから戦争の話を聞いたことがあるし、
本で読んで知識を得たこともある。
だから、そうやって得た情報から想像する。
ちっぽけな私の人生で、
僅かな尺度のものさしで、
私が知る小さな世界で、
乏しいと知りながら、
ただ想像するしかない。
女性の狙撃兵教官であるノーラが、
同じく教官であり、元狙撃兵のイリーナに訊ねるシーンがある。
「イリーナ、戦場で死ぬつもりがないのなら、君の戦争はいつ終わる」
するとイリーナは答えた。
「いつか……戦争が終わって、
私の知る、誰かが……自分が何を経験したのか、自分は、なぜ戦ったのか、自分は、一体何を見て何を聞き、何を思い、何をしたのか……それを、ソ連人民の鼓舞のためではなく、自らの弁護のためでもなく、ただ伝えるためだけに話すことができれば……私の戦争は終わります」
イリーナのセリフは、私に現代日本を想起させた。
最悪の戦争を経験し、
最悪の破滅を経験し、
時間の経過とともに何もかもが風化し、
少しは冷静に語らうことができるようになる。
けれど現実は、そこでは終わらない。
人類はその後も在り続ける。
更に時間が経過すると体験を語れる人がいなくなり、
実感を持てる人がいなくなってしまう。
悲惨さも凄惨さも薄れてしまったら、日本も再び戦争を繰り返すのだろうか。
現にロシアは繰り返している。
ソ連はドイツに軍事侵攻され、
両国は史上最悪と言われるほどの死者数を叩き出し、
その争いは歴史に大きく名を刻んだ。
約80年の年月を経てソ連はロシアになり、
他国にやられたことを別の国にやり返している。
愚かにも歴史を繰り返しているのだ。
しかし史実として俯瞰すればそうなるけれど、
もし人が、
歴史からは学べず、
体験からしか学ぶことがなきないならば。
反復のスパンに差はあれど、
日本もいずれ必ず誰かが繰り返すのではないか。
それはあまりに悲しく、
同時に虚しい現象のような気がしてならない。
『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』と言ったのも、
確かドイツ人ではなかったか…??
しかし現実は、
歴史だけでは学びきれないことがあり、
経験でしか学べないこともある。
そして私が思うに、
小説を読むことの素晴らしさの1つは、
疑似体験として歴史を学ばせてくれるところにある。
本書、【同志少女よ、敵を撃て】も、
そんな読書体験をさせてくれる一冊だ。
家族を殺され呆然自失となり死を待っていた少女が殺し屋になることも、
家畜さえ撃てずに泣いていた少女が躊躇うことなく人を撃てるようになることも、
天才的な狙撃の才能を有する少女が兵器の威力に取り憑かれて身を滅ぼすことも、
可愛がっていた犬が爆弾を背負わされ敵戦車の下に走って行かされることも、
同級生が敵兵に捕まり目の前で絞首刑にされることも、
即死を免れた兵士が燃料にまみれて焼かれながら「殺してくれ」と叫ぶことも、
全てが異常で、恐ろしく、
そして何より、
こんなにも悲惨な状況と引き換えに、
一体何を得たのだろうと、
虚しさだけが残る。
終戦後、
戦場という歪んだ空間に最適化されていた兵士たちは、
突然日常に放り出され、
まるで夢から覚めたように、
あるいは悪夢を彷徨うように、
『自分は人を殺した』という事実に直面し、
多くの人がまともでいられないのも当然だ。
国家間の対立である戦争は、
始まるときも、
終わるときも、
国民は何一つ自分で選ぶことはできず、
ただ大きな波に押し流され、
人生を一変させるしかない。
あまりに無力すぎる。
敵兵を撃ち殺し、
スコアを積み重ね昇進していく狙撃兵は、
味方からも忌み嫌われる。
『陰気な殺し屋』と呼ばれ、
女ならなおさら疎まれ、
蔑まれる。
増援としてかけつければ「女かよ」と暴言を吐かれ、
敵兵を撃ち殺して味方を助ければ「あいつは魔女だ」と嫉まれ、
「ドイツ女は良かった」と、婦女暴行を武勇伝のように語る男たちに、
女性としての尊厳を踏み躙られる。
『ここは、地獄なのか』
初陣でセラフィマに沸き起こったこの疑問は、
結局最後まで物語にこびりついたまま離れることはなかった。
本来ただの国民である現場の兵士は、
誰の立場に立とうと、
誰の視点で見ようと、
多少の差はあれ最後まで地獄に変わりなかった。
死んだ者も、
生き残った者も、
「戦争して良かった」などという者は居やしないのだ。
こんな良い本、学校の課題図書にでもしておきなさいよ。
そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。
お疲れ様でした!