「親子関係」ほど濃密で厄介な関係はないと思う。
親は子を選べず、子は親を選べず、
親は子を捨てることができるけれど、
子は親を捨てることなど決してできない。
子は親がいなければ生きてはいけないから。
なんて理不尽な関係なのだろう。
呪いなの?特級呪物なの??
母と娘
最近「親子関係」、とりわけ「母と娘の関係」について考える時間が増えた。
キッカケは3つ。
1つ目は、辻村深月さんの『傲慢と善良』を読んだこと。
2つ目は、『傲慢と善良』のヒロイン真実(まみ)を想起させるような、母との関係が歪すぎる新卒ちゃんの面倒を見る羽目になっていること。
3つ目は、齊藤彩さんの『母という呪縛 娘という牢獄』を読んだことだ。
辻村深月さんの『傲慢と善良』はまだいい。
なぜならそれはただの小説だから。
フィクションでしかありえず、「母と娘の関係」という観点から見ても大したことはない。
問題は残りの2つ。
現実の方だ。
私の元へ預けられた弊社の新卒ちゃんは、真実(まみ)なんかより余程母親との関係が歪(いびつ)で正直私はドン引きだし、
『母という呪縛 娘という牢獄』はノンフィクションで「滋賀医科大学生母親殺害事件」の犯人の手記をメインにまとめられている。
小説を読めば読むほど、自分が歳を重ねれば重ねるほど得られるのは、
「事実は小説よりも奇なり」という言葉が真実であるという実感だ。
弊社の新卒ちゃん
私が彼女と出会ったのは『傲慢と善良』を読んだ直後だったので、私自身の目にバイアスがかかっているであろうことは時折意識していた。
しかし時間が経つに連れて、バイアスという言葉で片付けられないほど彼女が異質であることに気付いた。
最新のエピソードを一つだけ紹介しておく。
実家暮らしの新卒ちゃん。
料理も掃除も母に任せきりの新卒ちゃん。
毎日母に作ってもらったお弁当を持参する新卒ちゃん。
毎朝母に髪を結ってもらう新卒ちゃん。
週に1回は職場の近くまで母が迎えに来る新卒ちゃん。
スニーカーを履けば靴紐は母に結んでもらう新卒ちゃん。
そんな我らが新卒ちゃんに、夏季休暇の希望をきいてみた時のこと。
返ってきた返答は以下の通りである。
「◯日~◯日まで母の仕事が休みなので、
できれば母と同じ日に休みが欲しいです」
はにかんだ笑顔でそう答える新卒ちゃんの純真無垢な表情を見て、私はゾッとした。
仕事以前に日常生活すらままならないほど不器用で何もできない彼女。
異様なほどの母親への依存。
その異常さに気付かず堂々と職場で口にしてしまう世間知らずさ。
何故かその尻拭いをしている私と、
足手まといな上に成長の見込みすらない彼女に給料を払い続ける弊社。
私の中で色々なものがぐるぐると廻り吐き気がする反面、
深呼吸をひとつすれば頭が冷静になりニヤニヤと笑ってしまいそうにもなる。
こんな珍事を間近で見ることはあまりないからという、露悪的な理由からだ。
後日、それとなく本人に確認したのだけれど、
母と合わせた長期連休で旅行へ行く等の予定はないそうだ。
連休は母と家で過ごすためのものだという。
え?
20年以上一緒に住み続けて毎日一緒にいる母と、
仕事の休みを合わせて更に濃密な時間を過ごしたいということ?
思わず口から出そうになった疑問を、ぐっと飲み込んだ。
それは聞くまでもないことだった。
そもそもこれほどまでに母に依存している彼女に、親しい友達などいるはずもなく。
ましてや異性との交流などあるわけがなかったのだ。
行き着く先はやはり真実(まみ)である。
母はいずれ先に死んでしまうので、
それまでに自分の代わりを見つけなければならない。
母の代わりに娘の面倒をみる結婚相手を、母が探すしかない。
なぜなら娘は一人では生きていけないから。
何もできない娘は、自分で人間関係を構築することもできないから。
母がどこかからお婿さんを連れてくるしかないのである。
新卒ちゃんとの付き合いが長くなれば、いずれ私は彼女からお見合いの報告を受けることになるかも知れない。しらんけど。
『傲慢と善良』を読んだ直後、私はヒロインの真実(まみ)に嫌悪感を感じた。
こんな女は気持ち悪いとさえ思った。
しかしその後リアルで新卒ちゃんと出会い、真実(まみ)はなんて普通の女だったんだろうと思い直すことになった。
現実に存在し、真実(まみ)以上に何もできず、自分の意志さえあるのか怪しい目の前の女は、鬱屈とした小説のヒロイン以上に気味の悪いものだった。
『母という呪縛 娘という牢獄』
これは現実に起こった事件である。
子育てをする前に必ず読んでおくべき一冊。
親と子の関係は閉鎖的すぎる。
イビツに歪んでしまっても、外から正すことは難しい。
結局は親が、関係が歪まないよう意識するしかないのである。
ところが母親というものは、子供という個人と自分という個人を混同しやすい。
子供を生んでいない私が言うのも変な気もするけれど、こればかりは男性には理解できない女性特有の感覚なのだろうと思う。
私は女性なので、その感覚を理解することはできる。
仕方のないことだとも思う。
けれどやはり、それは許されることではないのだとも思う。
本書は2018年に起こった「滋賀医科大学生母親殺害事件」を追ったノンフィクション本だ。
医学部9浪を強いられた30代の娘・あかり(仮名)が、最終的に母親を殺害してしまう。
殺人は罪で、あかりさんは殺人犯という犯罪者になった。
けれどあかりさんが悪いのかと聞かれると、YESと答える気にはなれない。
「何があっても人を殺してはいけない」なんて断言できるほど、私は善良じゃない。
あかりさんたち親子のような強制関係の話を聞くと、「逃げることはできなかったのか」「いい年した大人なんだから逃げればよかったのに」なんて意見も出てくるとは思うけれど…
本書を読む限り、あかりさんは当たり前のように逃げる努力をしていた。
母殺しに至るまでじっと耐え続けていたわけではないのだ。
私にはそれが一層恐ろしかった。
10代の頃から家出を繰り返すも、そのたびに母親に連れ戻される。
母親は興信所を使うし、交番のお巡りさんだって思春期の女の子よりも母親の言質に正当性を見出す。
スマホを取り上げられ、監視の目がどんどんきつくなる。
周囲に嘘をつくよう強要され、孤立していく。
部屋を借りようにも肩書さえない彼女(学生、または無職)には保証人が必要で、住み込みの仕事を見つけても母親が勝手に断りの連絡を入れてしまう。
そしてあかりさんが自分の意志で行動するたびに、待ち受けるのは母親からの折檻で、精神的にも肉体的にも追い詰められていく。
豊かで平和に見えるこの法治国家で、母親に全てを取り上げられたあかりさんは何もできない。
身分証があり、肩書があり、個人の通信手段が当たり前のようにあるのは、とても重要なことなのだ。
31年間、実母に人権を奪われたまま生きてきた彼女の人生はあまりにも辛い。
それでも彼女が最後まで母親のことを気にかけていたのは、もはや「業」としか言いようがない。
「基本的人権の尊重」という、日本国憲法の三原則が脳裏をよぎる。
まさかこんなにも身近で愛しいはずの相手から、これほど無惨に踏みにじられるなんて…
あかりさんはどうするべきだったのだろう。
事件を起こす以外に、何かもっといい選択肢はあったのかな。
よりよい選択肢を見つけたいような気もするし、今更見つけたくないような気もする。
あかりさんに下った判決は懲役10年。
刑期を終えたあと、今度こそ彼女が自由と自立を享受できたらいいなと願っている。
そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。
お疲れ様でした!