最近ふと思い出したことがある。
昔、彼に言われた言葉。
『例えば君は、美しいものを見たときに、それがなぜ美しいのか理屈で説明できる?
俺はそれができる。そうでなければ、この仕事は出来ないからね』
多分もう、10年近く前の話だ。
言われた当時、私にはその言葉の意味がよくわからなかった。理屈なんて、ただでさえ苦手だというのに。これまでの人生、どちらかといえば理屈より直感を頼りに生きてきた。
『美しいものに理屈とかある?ただ感情で綺麗だなって思うだけだけど…』
『まぁ、君に言ってもわからないか』
彼は少しつまらなそうに笑った。
どうして急に思い出したのだろう。ずっと忘れていたのに。
あぁ…多分…、理解したからだ。彼の言葉の意味を。
当時は全く意味がわからなかったのに、今なら彼が何を言いたかったのか理解できる。
他者に美しいものを見せようとしたとき、それを自分で生み出そうとしたとき。なぜ美しいのか、どこが美しいのか、どうすればもっと美しくなるのか。それがわからなければ、何も生み出すことができない。
少しずつ誤差を修正していく。僅かな差異を埋めていく。それは傍から見れば気づかない程度の些細なものだけど、その積み重ねが大きな差を作る。
久しぶりに舞台に立った。
20年ぶりくらいのバレエの舞台。
私はその本番に向けて、年甲斐もなく本気で練習に取り組んだ。休日はほとんどレッスンで潰して、半年近く友人とは誰とも会わなかった。
鏡の前でひたすらに踊り、先生に何度も注意され、自分の才能の無さに絶望した。
また、バレエをやめたくなった。
そうだ、だからバレエをやめたんだ。重圧と、絶望に耐えられなくなって、だからバレエをやめた…。
懐かしいことを、思い出した。
けれどもう、同じ轍を踏むことはない。
私はもう大人で、つまらないプライドなんてもうとうに失くしていて、私の日常には、バレエ以外のものもたくさんあるから。
だからこそ踊るしかない。少しでも、無様な自分を修正するために…。
この修正作業こそ、必要なのが理屈なのだった。
先生からの注意は、僅かな差を修正して、少しでも私の踊りを美しく魅せようとするものだった。
視線の向き、首の角度、肘の曲がり具合など。一見して違いがわからないようで、修正すると印象がガラリと変わったりする。
美しいものを作ろうとした人にしかわからない。先生は、あの時の彼と同じだったのだ。
そんなわけで……
先生の言葉をなるべく取り零さないように、少しでも言われた通りに動けるように。
いろんなことを考えながら踊っているうちに、急に昔のことを思い出したのだった。
『ねぇねぇ』
『なに?』
『昔いわれた言葉、最近急に理解できるようになったよ』
『え?俺そんなこと言ったっけ?』
『・・・・・・言ってた』
私との会話なんて、そんなもんよね?