「多様性」って、本当に必要なものですか???
『正欲』を読むと社会の在り方について考える羽目になる
朝井リョウさんの小説を読むのはこれで2作品目。
前回読んだ『何者』も面白かったので今回も読む前から期待が膨らんでいた。
その期待を裏切られることもなく、やはり朝井リョウさんの小説は面白いのであった。
人生や、生き方について考えてしまう。
他者との関わり、社会との関わり、集団の中での自分。
「普通」とは何か。自分は「普通」か。
いや、自分は「異常」なのではないか。
※以下ネタバレあり※
特殊性癖
私は特殊性癖の持ち主ではない。
これまでの人生で、性行為の相手が「人間」の「異性」であることに疑問を持ったことはない。
仮に「人間」と「異性」という2つの要件を満たしていても、その中でもかなりの幅があることは間違いないのだけれど、
『正欲』を読めばそんなのは誤差の範囲内に片付けられる。
もっと言ってしまえば「異性」である必要さえなく、「生きている人間」を対象としているならばその中の大半の人はマシなのだ(例外もあるけど…)。
少なくとも夏月や佳道のように、「え?人間と?何それどいういうこと??みんな何してるの??」みたいな状態になる心配がないのだから。
まるで宇宙人と会話しているかのようである。
「食事??なんでわざわざ口から異物入れるの?気持ち悪いね」
「睡眠??何してるの?死んでるの??」
そんなレベルだ。
生物としての根本的な欲求に齟齬があると言うのは対話さえ難しく、人間関係の構築には限界がある。
そのためマイノリティ側の空虚と孤独は計り知れない。
「決して打ち明けられない秘密」が作る溝がどれほど深いものか……
性癖ではないけれど、人間性という意味では私自身にも身に覚えがある。
社会における絶対的な異物感。
世界を自分事と思えず、気づくと無責任に観察してしまっているのは抱えている「秘密」にも大きな一因がある。
そもそも「多様性」は本当に必要なのか
「多様性」とは何か。
「多様性」とは、集団の中に異なる性質のものが混在することを指す。
そして「多様性」には様々なメリットがある。
1つは、創造性が増すこと。
多様な文化や価値観、考え方などを取り入れることによって革新的なアイデアが出やすくなる。すると更に多様なものを受け入れられるようになる。
2つめは、競争力を高めること。
組織や集団において価値観や思想の幅が広がることは、淘汰される可能性を抑えることにも繋がる。
生物学的にも語られるけれど、偏った種は、たった1つの事象を原因として全滅する確率が高い。
組織の存続。生命としての種の存続。集団を勝ち残らせるために必要なのが「多様性」だ。
こうやって見ると、「多様性」は確かに必要だ。理に適っている。
しかし『正欲』を読まずとも、近年の風潮に居心地の悪さを感じてしまうのはなぜだろう。
それはSDGsのせいだ(と、私は思っている)。
Sustainable Development Goals.
持続可能な開発目標
いつの間にか国連サミットで勝手に採決されたやつ。
いや、国連サミットで採決されるには相応しすぎる理想。
この中に、ダイバーシティ(多様性)という文言が繰り返し出てくる。
「誰ひとり取り残さない社会」を目指しているらしい。人類補完計画かよ。
でも私はSDGsに文句を言いたいわけじゃない。
そんなマクロな視点で物事を見ているわけじゃなくて、もっとミクロな…
そう、神戸八重子みたいな。
「多様性」を振りかざし、強要してくるような空気がとても苦手なのだ。
寛容のパラドックス
『正欲』を読んで私が連想したのは、哲学者のカール・ポパーが提唱した「寛容のパラドックス」だった。
無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く
寛容とは、不寛容も受け入れることだ。
しかし不寛容が残っていれば「寛容な社会」とは言えず、「寛容を強制」することはもはや「寛容」とは言えない。
「寛容」の代わりに「多様性」を当て嵌めても文章の意味に大差はないのではないか。
そしてこの物語の結末も同じだ。
「多様性」なんてものは極めて限定的でしかなく、その枠からはみ出てしまえば結局受け入れられることはない。
枠の中の人に理解できるラベルを勝手に貼られ、排除される。
マクロの理想と、ミクロの現実。
その距離はあまりにも遠い。
これから先の未来は、きっと「多様性」が広がっていく。
そして「多様性」の枠に入れないものがあるという現実にぶち当たって「多様性」が消失するか、
「多様性」を強制することで「画一性」が生まれ「多様性」が消失することになる。
そんな妄想が膨らむ読書体験でした。
そんな感じで、本日ワタクシからは以上でございます。
お疲れ様でした!